こんにちは、こわたです。
今日は書籍紹介をしていきます。著者は鈴木敏夫さんのもので2冊あります。
『仕事道楽_スタジオジブリの現場』『風に吹かれて』の2冊です。
ジブリ作品を見るとやはり宮崎駿さんがまず皆さん頭に浮かぶでしょう。私もそうです。他にも高畑勲さん、近藤喜文さんなどトップクリエイターたちが列挙されるわけですが、今回はプロデューサーの鈴木敏夫さんについてです。
ジブリの作品にはほぼこの人が関わっているので、ジブリを語る上では外せない存在でしょう。私も特に詳しいわけではないですが。
最近では『スタジオジブリ物語』という本も出しており、こちらのテーマは「宮さんに大事なことを覚えておいて!と言われた記憶をたどるとしたら今しかない!」というもののようです。
あれ、では以前に書いていた著書はどうなんだっけ?とふと思い以前読んだこの2冊を振り返ることに思い至りました。
仕事道楽の本は当時ポニョの制作時、風に吹かれては風立ちぬの公開時にそれぞれ出版されたようです。その仕事道楽の序文に「やってきた仕事を整理したりまとめたりすると現場から離れてしまう気がする。まっさらな状態に自分をおくと次がうまくいくと思うから、時には忘れる努力さえする」と書いていました。
なるほど、これを見れば確かに新刊の本についての意義は敏夫さんにとっても重大なものであるかもしれません。鈴木敏夫さんは今年で74歳ですからね。(ちなみに宮崎駿さんは82歳)
風に吹かれての前半では鈴木さんの半生が語られます。個人的に興味深かったのは学生運動で活動していた時。学生運動は主に1968年~1969年に盛んに行なわれたもので、反戦運動や反差別運動など様々なテーマを掲げていました。鈴木さんのところでは米軍資金導入反対闘争などが慶應の色んなところで騒がれたようです。
慶應大学に入った鈴木さはその中で巻き込まれるように関わっていく。立て看板を描いたりビラを描いたり。そして色々組織化しなきゃいけないからとみんなでどこか集まらなきゃいけない。集合場所が旅館だったりしたようですが、そこへ行くと専門家みたいな人がいぱいいる。そこで色々なお誘いを受けるわけだが、そのやり方に違和感を覚える。
確かに鈴木さんも世の中に対して不満を唱えたかったが、そのシステマティック化した運動で指導している輩が30幾つだったりした。そしたらもう学生運動じゃないじゃないかと、ショックを受けたそうです。
そして組織で先頭に立っていた先輩たちが4年生になると就職しちゃう。巻き込まれた後輩たちは留年するなか。場合によっては袋叩きにあい死人もでた中で、社会に不満を持って立ち上がっていたはずの人間が明らかに矛盾した存在になっていたというのは、強烈ですよね。
学生運動はもう大分昔の話で、30歳程度の私には戦争と同じくらいには歴史という認識になります。それがリアルな当事者目線で、なじみ深いジブリの関係者の語り口で垣間見れたのは面白かったですね。昔の方が良かった、なんて言いませんが、良くも悪くも確かにエネルギーの発奮が激しい時代だったのだなと。
その後、鈴木さんは徳間書店に就職します。ここで面白かったエピソードは、戦後に生き残った人の記事を書いていた所。
第二次世界大戦末期の日本と言えば「特攻隊」が印象深いですが、どうやら特攻隊に行った人は一期から十八期の内三期ぐらいだったそうです。その前後は実際にはいっていない。
その当事者だった人たちは偉くなっているか確かめたくなった、というのが鈴木さんの動機だったそうです。そしてその当事者たちは全員ブルーカラー、中小企業の社長が多かったようです。
一度死を決意した、しかし戻ってきて戦後を生きざるを得なかった…そういう人のその後の生き方は前向きになれるだろうか。前向きと後ろ向きっていう言葉は鈴木さんにとっては大きく、「後ろ向きに生きたっていいじゃないか」と、むしろそっちの人のほうが信用できるんじゃないかと持論があったそうです。そしてそれは見事その通りだったと。
ここはとても興味深かったですね。今時、ポジティブとか前向きとかがプッシュされていて、確かにその方が人生は楽しく過ごせる!そう自分も思っているんですが、でも前向きな人しかいないというのも、やはりどこか歪んでしまいそうな気がして。私はどちらかというとネガティブなので、この「後ろ向きの人のほうが信用できるんじゃないか」という言葉はズシリと来ました。
ただこれは、後ろ向きであっても行動しているものにのみ許される信用でしょう。ただネガティブだから、ではきっと済まされない。勘違いしてはいけないところですね。
そうして記事を書いていた鈴木さんは、漫画雑誌の創刊編集をしたりし、1978年にアニメージュ創刊に着手。その編集方針のひとつ、書く人・演出する人にインタビューするとうことで高畑勲・宮崎駿の両名に出会うことになったようです。
この出会いについては『仕事道楽』の序盤で語られています。太陽の王子ホルス公開時の頃で、道行く人に聞いて「あの映画は凄い」と聞いたからアポをとったそうです。しかし最初に電話を受け取った高畑勲さんは1時間、会えない理由を延々と語ったそうです(笑)。そう語った後に「隣にいる宮崎は別の意見を持っているかもしれないから」と電話をかわったそうなんですが、宮崎駿さんは「山のように語りたいから十六ページよこせ」と話したそうです。依頼したのは八ページ分だったそうなんですが、倍を要求してくるのは笑ってしまいますよね。
なにはともあれ、ここから二人の名監督と関わり、あのナウシカの制作とスタジオジブリの設立へ向かっていくようです。
…さんざん書きましたが、あまりジブリ自体には触れない内容になってしまいましたね。ただ、鈴木敏夫さんの歴と、その人が見てきた当時の世相・人物が印象的だったので、今回はそこを中心に書かせていただきました。
ジブリ設立の流れについては新著の「スタジオジブリ物語」など他の著書でも書かれているはずなので、そちらを読んでみるといいかもしれません。
私も時間があれば、記事でまとめられればと思います。
それではみなさん、これにて失礼いたします。
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